【前回から続く】

令和6年3月16日、21時半過ぎに介護施設から私のスマホに電話がかかって来ました。嫌な予感がしました。職員さんは慌てた様子で「定期見回りに行ったところ、奥様がベッド脇に倒れているのを発見しました。意識不明の状態です。今、救急車を手配しています」とのこと。

数分後に救急隊員から「奥様は生前から延命措置はしないようにと署名していますが、一応病院に行き診察を受けることになります」と連絡が入りました。その後すぐに受け入れ先の病院が見つかり、我々家族もその病院に向かいました。

待つこと約1時間。医師が説明に来てくれました。

「午後11時22分、死亡が確認されました」と、妻の死を告げられました。身体はまだ温かく、穏やかな死に顔でした。この辛く苦しい3年間、本当に良く頑張った。ようやく楽になれたねとの思いでした。

娘二人と涙・涙・涙です。

後で聞いた話ですが、その日は夕飯に唐揚げが出たそうです。19時過ぎに片づけに行った職員さんに「いつにも増して美味しかった」といって、珍しく全部平らげたそうです。それが2時間後にはこんなことになるなんて、申し訳ありませんというので、いや、十分に良くしてくれました。謝らないでくださいと言いました。

 

残念ながら女房の臨終には立ち会えませんでした。

仕事人間で最後まで自宅で看て上げられなかった自責の念に駆られています。多分、ずっとこの思いは脳裏から消えることはないでしょう。

そして、空気のような存在感であった、つまり何の気兼ねもなく振舞える存在が家にいなくなって約1年と8カ月でしたが、それでもまだ生きているという安心感がありました。しかし、完全にこの世の中から消えてしまったとなると、思い出が次々と浮き上がって来ます。

結婚して翌年には長女が生まれ、次女が生まれ、幼稚園にも行き、入学式にも行き、運動会にも行き、プールの応援にも行き、中学・高校・大学・結婚式に行った時にも、必ず隣にいた妻がいなくなるのは寂しい限りです。

カフェや外食、都心ホテルや箱根や熱海に行くことが唯一の楽しみであった女房でした。私は完全なるアッシーでした。電車なら行かない、車なら行く、と。

9年前に65歳になり、「さあ人生で一番楽しめる時間だ」と思っていたのも束の間、間質性肺炎という病魔に襲われました。

お金にもある程度余裕が出来、娘も成長して「やれやれ」といったところだっただけに、一緒に楽しんでいる夫婦がやけに羨ましく思える今日この頃です。

 

これも人生と島倉千代子さんは言うのでしょうか。私との結婚はたぶん「失敗だった」と、妻が草葉の陰で言っているかもしれません。 

【次回に続きます】

 

 

 

 

 

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