私が、人間性とは何か、あるいは生きる意味を勉強することになったきっかけは、バブル崩壊でした。30歳代後半でした。
不動産鑑定士として、独立・開業した年が昭和56年春、28歳になったばかり、かつ結婚もその年でしたので、食っていくためにどうしたらよいかしか考えていません(実はこの3月で開業40周年になります。自分で自分を褒めてあげます)。まさに徒手空拳とはこのことをいうのでしょう。多少の売上が見込める大手不動産会社の物件調査の下請けがあったことが救いでした。とはいえ、年商で数百万円程度です。その頃の不動産鑑定事務所の売上の大半はいわゆる公共鑑定依存でしたが、役所にパイプを持たない私にはあてにできない遠い存在でした。
こんな状態で人間性がどうのこうのなどという次元ではありません。そうこうしている間に大手金融機関との接点も確立し、4年後には何とか売上も2,000万円を超えるようになりました。そして、昭和60年中頃からバブルが始まりました。過剰流動性とかいう金余り現象が勃発し、昭和61年から怒涛の勢いで土地価格が高騰しました。年率100%を超える上昇です。金融機関の手先でいわゆる担保徴求のための鑑定評価をしていたこともあり、これに乗って行きました。つまり、年利9%の高利(当時はこれは普通)で借金をして5件の物件を買ったのです。1億数千万円の借金です。今では1億円ちょっとの借金はそれほど大した金額ではありませんが、当時の金利が9%です。今の10倍ぐらいの感覚です。買った時期は折悪くバブル崩壊の2~3年前でした。つまり、最高値のババを引いたことになります。まさに「紺屋の白袴」、「医者の不養生」を地でいったようなものです。
この当時は社員が4人程度でしたが、バブルの恩恵もあり、売上は1億円を超えていました。50万円もする事務所用ソファーセットを値札も見ずに「これ下さい」と買ったものです。とはいえ、こんなものは可愛いものです。儲かっている不動産業者さんや関係者は10億円単位で稼いでいました。これらのほとんどは値上がり益です。1億円で買うと6ヶ月後には1億5千万、1年後には2億円です。その場にいると、永遠に上がり続けるという幻想が現実化して止まらなくなるのです。金融機関もせっせと貸し続けました。昭和62年から63年に起こったことです。
しかし、平成2年、当時の大蔵省の総量規制や国土庁の土地監視区域制度により、見事に地価は下落し始めました。私が所有している物件も60%~70%の値下がりをしました。つまり、買ったときの3掛け程度です。株式用語に「半値八掛け二割引」というのがあります。ということで、売ったとしても借金が1億円ほど残ることになりました。麻雀用語ではこれをポンカス(何の役にもたたない)といいます。他人様の鑑定評価は出来ても自分の鑑定は出来ないものだと(今は違いますよ)お高い授業料を払って世の中の仕組みを勉強することになりました。 <次号に続く>
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