(その1)
大都市圏の地主にとって土地の有効活用は永遠のテーマです。
江戸時代から続く農家さんは名主と呼ばれる大地主とその下で働いていた小作と言われていた、雇われ人に大きく色分けされていました。しかし第2次大戦後(昭和22年~25年)GHQの農地解放政策により小作の人々も本物の地主になりました(政府が地主から強制的に買い上げ、それを小作人に安く払い下げた制度です)。
昭和35年前後くらいから始まった日本経済の高度成長が進展するにつれ、昭和30年後半(昭和39年が東京オリンピック)頃より、地方から多くの若者(これが団塊の世代です)が、東京・大阪を中心とした大都市圏の大学や就職のために集まりました。たった4年間の生まれた数が1,000万人の人々です。
当然に住宅難に陥ります。独身世代はアパート(良くて6畳、普通は4畳半か3畳)新婚さんは○○団地と呼ばれる40㎡程度の2DKでさえ憧れの住宅でした。その頃はおそらく膨大な国有地や公有地があったのでしょう。
日本住宅公団(現在のUR都市機構)というほぼ官の組織が市民の住宅需要を満たすために一定の役割を果たしことは否定出来ません。しかし、今ではこの築50年近くなったコンクリートの塊がまさにオールドタウン化して今後の維持管理に大きな影を落としていることはご承知の通りです。
これらの住宅開発に伴い公立学校や公園、道路整備のために壮大なる土地買収が始まります。ちなみに不動産鑑定士の試験制度は昭和39年からです。そして昭和45年には地価公示制度が始まります。これは国や都道府県が地主等から用地を買収するときに、指標とすべき土地の価格がないと困るために作られた制度と言っても過言ではありません。これが田中角栄元首相の列島改造計画につながります。
昭和48年ごろより空前の土地ブームが始まります。第1次土地バブルです。2年程度で土地価格が倍以上になったと言われています。総不動産屋時代などと言われた時代です。という時代背景のもと地方から出てきた若者はすぐに自宅を買えるはずがありません。民間の賃貸アパート需要は旺盛になります。ほとんどは木造、鉄骨、鉄筋の2F~3F建て共同住宅です。それが当たり前の時代です。
昭和50年頃より多くのハウスメーカーと呼ばれる建築業者が覇を争うように賃貸アパート・マンションを建て初めました。
昭和49~52年頃まで地価は沈静化するのですが昭和53年~55年にかけてまたまた倍ぐらい(練馬区の住宅地は坪50万円から100万円)になります。第2次土地バブルです(これは意外と知られていない)。そうすると、サラリーマン層は簡単に住宅を買えない時代になりました。何しろ住宅ローンの制度が未整備で金利が8~9%でした。今から考えると恐ろしい高利ですが、この私も昭和58年当時中古マンションを買うのに際し、住専と言われるノンバンクに9%台で借りていたので本当の話です(今はこの家には住んでいません・・・トホホ)。
話は逸れますが、実は現在の地価(エンドの住宅市場と投資市場)を支えているのは、何を隠そう(隠さなくてもいい)低金利なのです。住宅ローンの事実上1%台は(変動だと0.38%もあり)本来は買ってはいけない層にも売っているという、実に恐ろしき事態です。金融機関の心配事はとにかく返済してもらえるかです。それを緩和する方策としての低金利政策は、返済期間35年とセットで、住宅ローンという名の借金をし易くなったが故の土地売買市場を支援しています。35年返済に人生を捧げ超低金利という逆レバレッジが効いているからこその住宅市場です。
ところで、この昭和50年代初めに建てられたアパート・マンションの行く末です。この頃は不動産の有効活用などという概念はほとんどありませんでした。空いている土地があれば建てる、建てれば人は入るという時代。まだ人口が増え続けていた夢のようなマーケットが存在していました。その時代は利回りという言葉もありません。収益性や利回りという用語が認知されたのは平成15年ぐらいでしょう。
しかし、現在でも地主層が収益性とか利回りという概念を本当に理解しているかは疑問です。さらに言うと供給者側のハウスメーカー自身が心底、顧客のために利回りを説明しているかも疑問です。特に3階を超える中層階のアパート・マンションにおける投資利回りの概念をです。
(次号に続く)